前世戦士の映画日誌

前世が戦士らしい女が映画を観て色々吐き出します 生態日誌です

『最後の決闘裁判』リドリー・スコットは配慮を知らない(ネタバレなし)

f:id:sinok_b:20211231225726j:plain色々物議をかもしている『最後の決闘裁判』。さすがの私もこの映 画でいつもの調子で文章書く気にはなれず、とは言っても書かないまま年越ししたくなく。
帰省の移動中にスマホアプリで書いてますんで(いつもはパソコン)、荒い文章とレイアウトなのはご容赦のほど。

巨匠リドリー・スコット監督が、アカデミー脚本賞受賞作「グッド・ウィル・ハンティング 旅立ち」以来のタッグとなるマット・デイモンベン・アフレックによる脚本を映画化した歴史ミステリー。1386年、百年戦争さなかの中世フランスを舞台に、実際に執り行われたフランス史上最後の「決闘裁判」を基にした物語を描く。騎士カルージュの妻マルグリットが、夫の旧友ル・グリに乱暴されたと訴えるが、目撃者もおらず、ル・グリは無実を主張。真実の行方は、カルージュとル・グリによる生死を懸けた「決闘裁判」に委ねられる。勝者は正義と栄光を手に入れ、敗者は罪人として死罪になる。そして、もし夫が負ければ、マルグリットも偽証の罪で火あぶりの刑を受けることになる。人々はカルージュとル・グリ、どちらが裁かれるべきかをめぐり真っ二つに分かれる。「キリング・イヴ Killing Eve」でエミー主演女優賞を受賞したジョディ・カマーが、女性が声を上げることのできなかった時代に立ち上がり、裁判で闘うことを決意する女性マルグリットに扮したほか、カルージュをマット・デイモン、ル・グリをアダム・ドライバー、カルージュとル・グリの運命を揺さぶる主君ピエール伯をベン・アフレックがそれぞれ演じた。

2021年製作/153分/PG12/アメリ
原題:The Last Duel
配給:ディズニー
(映画.comより)

間違いなく、この映画はリドリー・スコットの作品の中でも傑作です。
リドリー・スコットって映画監督のなかでも、とりわけ「いかに全てを映像で語るか」に力を置きまくって色々バランス崩してる人なのですが、この映画は映像でここまで人間の感情を伝えることが できるのかと、見ているこちらが慄くほどの作品でした。
もちろん、役者の演技あってのものですけど、その演技をさらに増幅させる画を撮るのがリドリー・スコットなわけです。
リドリーは、この映画で人の感情を描き切りました。野郎どもの勝手で野蛮な姿を、男の論理に適応する道を選んだ女たちの姿を、神の名の元に臆面も疑問も持たず彼女を追い詰める男たちを、そして理不尽さを感じつつも沈黙して生き延びることを選んだ女たちを(ほとんどセリフの無い女性陣でも表情はしっかり拾っている)。
誰に肩入れすることもなく。

だから、問題なわけですよ。
この映画の出来が悪ければ、問題は違う形になったのではないかしらん。
リドリー・スコット個人の主義主張ははともかく、映画監督としては、徹底して第三者の視点を崩さない。
一人一人を同等に扱っている。むろん、最後の章の主体をマルグリッドにしていることで、彼女の視点こそが真実なのだと暗にわかるようにしている。
してはいるが、これを声高にうたっている訳ではない。
わかるやつにはわかるだろ、いや普通わかるだろ、という、リドリー・スコットらしい演出だと思う(だからわからなかった記者のアホな質問に怒ったりしている)。

でも、だから、そのことに不愉快な思いを感じる人がいることもよくわかる。
リドリークラスのヒットメーカーが、どうして今このご時世に、ちゃんと女性の真実をはっきりと主張した映画にしなかったのかと。
私個人の印象では、リドリー・スコットが明らかな女性蔑視や差別意識を持っているとは思えない。
彼は、女性が男性より劣っているなんて微塵も意識していないし、必ずしも男性がヒーローだと考えてもいない。
あの年代の白人男性にしては、マシな方だと思う。
その一方で、自分には差別意識がないと思っている人あるあるで、本人が社会的に包含された差別意識について意識がしていないこと、映画監督として表現することが先に立っているがために、いま現実に苦しんでいる女性がいる現状に真に寄り添って考えられない人でもあると思う。

そのうえ、そもそも画で容赦なく内面を暴くことを重視するあまり、そのほかのことへの配慮はあまり(ほとんどかも)しない監督なもんだか ら、余計に困る。
これ、彼が巨匠だからとか金になる映画を作るから平気だってこともありますが、どんな画にするか、が、リドリー・スコットの映画づくりの中心で、それ以外は二の次だからじゃないかなと思います。
改めて思えば、リドリー・スコットの映画ってあまり声高に主義主張したりしない。
物語をいかに画で伝えるか、それ自体が彼にとって一番重要なことで、物語そのものは本当は二の次のような気がする。これは本人が意識してる訳でなくて、映画監督としてそういう才能なのだとしか言いようがない。
だから容赦のない映画が平気で撮れるわけで、その容赦の無さが好きな理由でもあるんだけど。
なにせ、リドリー・スコットが大好きな上に、女性がひどい目にあう大抵の映画(何せ、レイピストの野郎どもが世にも残酷な目に遭わされる姿を見たくて『アイ・スピット・オン・ウイア・グレイヴ』*1まで見た女である) を平気でみてきた私でさえ、第三幕はかなりきつかった。

私は結構平気で過去のダメ彼氏エピソードを話しますし、モラハラDV気味の元カレにラブホで殺されかけた話(若い頃のことです)はすっかり昇華されてもはや武勇伝として話せますが、それでもこの男については思い出すの嫌な記憶もあります。

いいですか?
殺されかけたことを思い出すより、嫌な話なんですよ。
それがこの映画のせいでフラッシュバックしたんですよ。

同じような場面は、山ほど映画で観てきたのに、こんな思いをしたのは初めてです。
だからこの映画は間違いなく傑作なんだけど、人の記憶をゴリゴリ掘り返せるほどすごい映画なんだけど、私は二度と見ない。
リドリー・スコットの映画は全部ソフトを持っているけど、これだけは買わない。

私も、何でもかんでもわかるように撮ることが是だとは思いません。
でも、この映画の場合は、あのレイプシーンは撮って見せなきゃ、演出でにおわせるだけでは、ダメだったろうなと思います。
なぜなら、演出でにおわせるだけでは、男性原理にどっぷりつかった男性と、その男性原理に服従してしまった女性には、わからないんですよ。
彼ら彼女らにとっては、目で見える「事実」だの「現場」だのが無 ければ、この映画は本当に「真実は藪の中」なのです。

そんなの、事実かどうかわかるでしょ!?見せる必要ないでしょ! ?
はい、私もそう思います。でも見せないと「本当はどうだったんだろう?」というところに焦点があたってしまい、くそみたいな男性原理と決闘裁判というアホな制度に対し、正義を求めた女性の姿がブレてしまっただろうとも思います。

そして、この映画は見せなきゃわからない人たちに向かって、作られたような気がしています
脚本はマット・ デイモンとベン・アフレックです。この二人が「女性パートは女性脚本家にお願いしよう!」と(多分)単純に考え、女性パートはニコール・ホロフセナーが書いています。
それなのになんでレイプシ ーンがもう1回出てくるのか。
これ、完全に私のただの憶測ですが、レイプシ ーンでマルグリッドがどんな思いをしたのか、はっきり書かないとこいつら(マット&ベン)はわかんねーんだな、と、彼女は思ったんじゃないでしょうか

ニコールがレイプシーン除いて書く→マット&ベンが「これじゃわかんないから、ちゃんとシーン書いて」→ニコールが「こいつらこんなにアホなのかよ!」とあきれて、「じゃあ、アホでもわかるように書いてやるよ!」と徹底的に書いた……とかね。
あ、どうしよう、なんかこれってありかもと思えてきた。
違ったら誰か違うって言って。

 

公開タイミングのせいか、内容のせいか、単に「決闘裁判」という 一般的には耳慣れない言葉のせいか、リドリー・スコット映画史上 稀に見る赤字となるらしいこの映画。
パンフレットも作られていません。決闘裁判について予備知識の無い人が見たら間違いなく解説が欲しくなる、#MeToo絡みの解説や製作陣のコメントも知りたくなる映画なのに、パンフレットがない。
私は中世ヨーロッパ史が大好物なので、この元になった事件については微かに記憶があったんですが、やっぱり詳細が知りたいので原作買っちゃいました。

中世は暗黒だ、いや暗黒だというのは現代の感覚だ、という議論を昔読んだ記憶があります。私としては、やっぱり中世は暗黒時代だと思います。
決して暗愚な時代とは思いませんが、知識と知性を全力で残酷で愚かなことにつぎ込んでいた時代という意味では、 やはり暗黒時代だったんです、中世ヨーロッパは。

ただですね。
勝ちさえすれば名誉回復する(正確には夫の名誉だが)中世と、屈辱に耐えに耐えて裁判で勝訴してもSNSで被害者が叩かれ続けたりする現代と、この点だけを比較するなら果たして どちらがマシなのか。
それはいまいち私にもわかりません。

*1:前半女性が恐ろしくひどい目に遭い、その復讐で男どもがひどい目に遭うが、個人的にはもっとひどい目に遭わせていいと思っている。女性がひどい目に遭うところを観るのが嫌な方は、前半飛ばして後半だけ観るのもあり